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現実に右往左往しながら、ときどき動画を作る人の記録。

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このブログについて

Q1. 誰が書いてるの?
A1. 何の因果かニコニコ動画にはまり、そしてニコマスにはまった末、見る専からPになってしまった朗読Pという人が書いています

Q2. リンクフリーですか?
A2. どうぞどうぞ

Twitter:
Whitethroat

マイリスト:



【雑談っぽいもの】:
動画以外に、オフ会などで実際に何人かのニコマスPの方々とお話して、その内容をまとめた記事をいくつか書いています。カテゴリー「お話してみた」、または以下のリンクよりどうぞ。

ふぃるP - 2009年9月21日 早朝
その1  その2

レスター伯P - 2009年11月22日 朝
その1  その2  その3

dbdbP
■2010年1月17日 夜
その1
■2010年1月24日 昼~夜
その1  その2  その3  番外編
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固定概念の話

最近考えたこと。

キャラクターである彼女たちにしろ、ノベマスでの話の展開にしろ、ニコマスと言うものが今までの時間の中で何となく醸成してきた定型というか、固定概念らしきものがないとは、個人的には思えない。型に頼るのは楽だし、安心感も強い。制作者側の意図したイメージと視聴者側で感じるイメージの齟齬も少ないしね。

でも、それはあくまでニコマスに浸かり、ニコマスの文法をいつの間にか自然に自己に組み込んでしまった段階の人たちの間での話。

極端な話、「上級者向け」と言われそうなジェットPのPV作品にしたって、アイマスを全然知らなくとも、ちょっと知っているくらいでも、あるいはどっぷりはまっていても、その各段階において感じるものはあるはずだし、また段階が進むほど失ってしまったり、気がつけば霞んでしまいやすいものもあると私は思う。

例えば、制作者の皆さん。ニコマスを見始めたときのワクワク感、初めて作品を作ったときのドキドキ感、忘れていませんか?取り戻せないものと、あきらめていませんか?

もしそうだと思うなら、懐古とか郷愁に流されている暇はありませんよ。あなたの作品を待っているほど熱烈なファンは、もしかしたら少ないかもしれない。いないかもしれない。だけれども、あなたの作品が組み込まれたニコマスに今ワクワクしながら入ってこようとする人がいるかもしれない。「どうしよう、作ろうかな」と考えてドキドキしている人がいるかもしれない。

そんな人たちに、「ニコマスってこんなに自由だよ」と言えるのは今作っている人たちです。言葉ではなく、作品で言えるのは。

だから、固定概念なんて捨ててしまってもいいんじゃないかな。

意味の話

私は作った動画についてライナーノートを書くような人なので、たいていの場合、何かの「意味」を動画や話に持たせようとするのだけれど、全く意味のない、何も考えていない動画も作りたいなあと思う今日この頃。

意味がありそうに見えて、実は空っぽな動画。
空っぽであるように見えて、実は意味がある動画。

前者を作りたいのに、気が付くといつの間にか後者に変わっているんだよな。

でも、あるとき私が本当に空っぽで意味のない(≒意味をこめたつもりがない)動画を作ったとしても、見てくれたり話してくれたりする人たちはすごく優しいから、きっと意味を探してしまうのではないかと思います。そのときには、Twitterでも掲示板でも、まあその人たちの目に留まりそうな場所ならどこだっていいのですが、「意味ですか?それはですね、ないんですよw」と一言書き捨てるくらいのイタズラをしたい。

それができなかったら、少なくとも、一緒になって「意味を(後付けで)考える」ということだけは、しないように用心しておきたいと思います。

寄り添う人たちの話

以前の亜美・真美動画のタイトルで使ったネタの逆バージョンですが、

倖せ(しあわせ)という字があります。

一人離れてもまだ、

幸せという字は保たれています。

でももう一人離れてしまうと、

辛いという字になります。


寄り添っていてあげてください。

理由の話

なぜ私は再生数を(場合によってはマイリスト数も)あまり気にしたくないと思っているのかを、しばらく前からずっと考えていて、ようやくそれらしき理由に行き着いた。

"誰かに、ずっと覚えていてもらえる作品を作りたい"

これだ。

覚えていてもらうにはどうすれば良いか。とれる方法は二通りある。一つは、より多くの注目を集め、否が応でも記憶に刻まれるようにするやり方。もう一つは、決して一般受けしないがごく少数の人にとってはとてつもなく印象に残るようにするやり方。

私のやり方は後者だ。あの一連のシリーズは、一見優しくやわらかい話に見える。そのイメージのまま掘り下げていっても、やはり同じように見える。しかし、実際は恐ろしく尖っているのだということに気づいた。あれは、私が研いで、磨いて、誰かの心を貫くよう無意識のうちに作り上げた矢なのだ。誰かの心を留め置きたいという赤黒くもあり、真っ白でもある欲求の塊が、あの裏側には隠れている。

だから私は、(動画の再生時間)×(動画の再生数)という数にではなく、(動画が印象に残った人の数)×(その人の心の中で動画が印象に残り続けた時間)に反応していた。もちろん後者は、誰にも計れないし、誰も知らない。それでもなお、そこにこだわる。

個人的な見解だが、ニコマスに限らず、ボカロもニコニコ動画の作品たちも、その「消費」はどこか刹那的に感じられることが多い。ぱっと見られて、それで終わり。かといってランキングに残り続けると、時には「工作乙」と言われる。コンテンツを味わう時間のようなものが、ちょっと軽く見られすぎじゃないか、という小さな憤りと反発が私をこのような思考に向かわせたのかもしれない。

火のついたトーチを掲げて走るとき、強い風が外から吹き付ければ火は消えてしまう。しかし、自分が速く駆け抜けすぎても、また火は消えてしまうのだ。