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現実に右往左往しながら、ときどき動画を作る人の記録。

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個性の話

様々な作品がある。ゲーム内の映像を使ったPV風のもの、手描きのもの、ノベマスや架空戦記……PV一つとってみても、使用している曲のミュージックビデオのようなものから、ストーリー形式に仕立てられたものまであり、実に多彩である。

そこで考える。「個性」とは何だろうか。何かを作り出すことは、個々人の個性の発露であると解釈する見方について、違和感を覚える人は少ないだろう。しかし一方で、脱個性化の過程が芸術であり、創作であるとする考え方もある。個性からの脱却をはかるとき、個性の役割は果たしてどこにあるのか。


それは触媒である。


Aという物質とBという物質を単に混ぜただけでは化学反応が起きない状態であるところに、Cという物質を入れてみる。すると初めて反応が起こる。しかし、反応後の化合物にCは含まれない。

荒唐無稽に見える発想や妄想も、完全な無から生じることはまずない。既存のもの―それはキャラクターであったり、音楽であったりする―が様々に分布している空間に、一人のPの個性が入り込む。そしてある時、一つの作品が生まれる。

もちろん、全ての作品がこうした過程を経て生まれるわけではないが、作品を作るのに行き詰ったときは、とりあえずそのテーマを寝かせておいても損はないと思う。「作ろう作ろう」とはやる気持ちを一旦クールダウンさせ、全然違うことをしているうちに、思わぬところで突破口が見つかるかもしれない。

それは触媒としてのあなたの個性が作用した、確かな瞬間なのだ。
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情報量の話

今日の朝、目覚まし時計の電池が切れていたため、私は一限の講義に出られなかった。寝坊が原因で講義に出られなかったのは、覚えている限りではおよそ5年ぶりくらいのことだったが、そこでふと情報量のことを思い出した。

情報量とは、ある出来事(事象)がどのくらい起こりにくいかを表すもので、その出来事が与えるインパクトを考えるうえで参考になる指標である。これは次式で定義される。

事象Xに対する情報量
I(X) = -log P(X)
【注1】:P(X)は事象Xが発生する確率。0~1の値をとる(0ならばXは絶対起きない、1ならば必ず起こる)
【注2】:logの底を2としたときは、I(X)の単位はビット(bit)
【注3】:情報量と呼ばれるものには、他に平均情報量というものもあるがここでは省く

この式の値は、P(X)の値が0に近づくほど急速に増加する。つまり、「起きにくい」出来事ほど、その情報量は多くなる。

ニコマスに例えてみよう。先日のdbdbPの記事(興味深いエントリなのでぜひ読んでほしい)に関連するが、現在のニコマスで、視聴者にとって背景の合成やダンスのシンクロそれ単体の情報量は少なくなってきている。すでに定着した手段・演出の与えるインパクトは小さい(yotaPのように次元が違うほど秀逸なダンスシンクロは別として)。

こうした状況で、制作者であるPたちは何を目指すか。ここで私は、「意外性」を狙うことをすすめる。それは今まで(ほとんど)誰も見たことがない、手を出したことがないものを探して試してみるということである。ある分野の、分野とまでいかないときは演出の「先駆者」になろう。それは"期待を超える"一つの方法になる。

ただし、これは作っている本人が一種の義務感でやってはいけない。「作りたいものを作る」「やりたいようにやる」という立場を無理に崩すことは、精神衛生上よろしくないので全くおすすめしない。あくまで、「作りたいもの」の中にある「新しいもの」に挑戦してみませんか、というお誘いなのである。

こんな風に偉そうに言う私が、それを一向にできていないのは恥ずかしい限りであるが、もっともっと楽しいニコマスライフを送っていくにあたって、投げっぱなしにならぬよう、自分に向けての宣言という意味も込めて書いてみた。そして書いてみて思ったことは、相変わらず、私は長文が苦手である。

ガラス玉の話

ガラス玉の話をしようと思う。

あらゆる作品は、一つのガラス玉だ。別にニコマスだけじゃない。ニコニコ動画以前のFlashムービーも、ニコニコ動画以後の他ジャンルの作品・他サイトの作品も、それら全ては一つ一つが違った輝きを包んだガラス玉になっている。そうしたいろんな色の粒は、かちりかちりと音を立てて、真っ白で広大な紙の上を滑っていく。それは昨日もそうだったし、今日もそうだし、明日もたぶんそうだろう。

ところで、あるものに色がついていることを私たちが認識するためには、それが「見えて」いないといけない。
見えるために必要なものは光。私たちはものを見ているのではなく、ものに反射された光を見ている。そのように作品を照らし出し見つけさせてくれる光は、言語だったり、紙だったり、電波だったり、あるいはくもの巣のように張り巡らされたウェブだったりするわけで、それらが入り組んで飛び交っている世界に、今日私たちは立っている。

気まぐれに転がっていくガラス玉たちが、紙の上に一瞬だけ残す色の反射。その色をよく見て、なぞって、言葉にするのが私が話を考えるときのやり方だが、同時にそれはいつまでたっても終わることのない思索の過程でもある。

何とも取りとめのない無駄話になってしまったが、結局、こんな話で何が言いたかったのかというと、私は拾えなかった色との交差を経て、ある日たまたま形にすることができたいくつかの話や作品というものに対して、次の言葉をかけたかっただけなのだ。

「ありがとう」

ある方への私信

先日、ブログにコメントをいただきましたが、私は決してあなたのコメントを不快に感じたことなどありません。そう感じさせてしまったのかもしれないと、不安に思われた結果、あなたはコメントの削除という方法を選択されたのだと僭越ながら拝察しますが、私としてはコメンテーターの方にそのようなプレッシャーを感じさせてしまったことをむしろ申し訳なく思います。

そして、私には今一つの不安があります。それは、あなたが他のニコマス作品に対する感想を書くとき、どこかで遠慮してしまうのではないかという不安です。あなたの感想を表現する幅を、あなた自身が狭めてしまうのではないかという不安です。

それだけは、絶対にしないでください。あなたは、あなたが感じたものを自由に表現してください。どのような感想であっても、私にとっては大切な糧です。弱気になってはいけません。たくさんの方が、それぞれの感じ方で語るところに、感想の価値があると私は思います。だから、どうかあなたの感想に自信を持ってください。


一人のプロデューサーより

あるコメンテーターの方へ