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現実に右往左往しながら、ときどき動画を作る人の記録。

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ねんぷちが届いた

早速開けて眺めてみる。
…やばい、何これ。超可愛いんですけど。
ただ、こんなふうに2828している様子を誰かに見られたら、恥ずかしさのあまり憤死しそう。
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一通のメール

先日上げた朗読動画の感想が、友人から届いたので紹介してみる。

---引用ここから---

おめでとう
おめでとう
おめでとう
ありがとう
ニコマスに、ありがとう
現実に、さようなら
そして、全てのP達に、おめでとう

---引用ここまで---

一通り眺めてみてお祝いのメッセージであることは確定的に明らかだがどこもおかしくはない

(#゚Д゚) < んなわけねーだろ!おい、6行目!

(´;ω;`) < 現実にさよならしたらただのニートになっちまうお、リア充を目指すんだお・・・

花束とナイフ

ずっと前、ニコマスに本格的に入り浸る、ずっとずっと前。上げたある動画に一発ドカンとくるネガティブコメントをいただいたことがあった。直接受け止めるにはあまりにも鋭すぎて、怖くなって、結局その動画は削除してしまったのだけれど、あのとき、直接作る側と見る側がつながっているときのメリットばかりがキラキラと頭の中で輝いていただけの自分は、リスクへの認識が甘すぎたのかもしれない。

ただ、そういったことを受け止める"覚悟"みたいなものを延々とどこかの誰かに聞かされて、「はい、わかりました」なんて言うことができない自分が、今もいるのも事実。わがままだね。

でも、今はまだ、やりたいようにやる、ってことでいいと思っている。やりたいだけやって、やりつくして、それからじゃないと、きっと何にも始まってないし、終わらない。

待ち望む、という感覚

1月に仮にも一人のPとして作品を投稿して以降、毎週金曜日が来るのを待ち望むようになった。というのも、その曜日は情熱大陸の公式ブログ、「情熱大陸+P」でポッドキャストの新作がアップロードされる日。一週間のどんなテレビ番組より、その中身が気になって仕方がない。

それはなぜか。

…質問形式にしてみたところで、既存の自作を見た人ならすでにお分かりのことかと思う。以前の自作にあったナレーション部分。その音声が、全てこのポッドキャストの中から切り貼りして作られたものだからだ。作品を作るための素材として必要、というのはその通り。全くもって正しい。でも、それよりもっと重要な理由が自分にはある。その二つ目の理由は

「配信されたポッドキャストの文章によって自分が作るストーリーが決まる」

ということ。これはあらすじだけではなくて、「どのキャラクターで作るか」・「どんな設定にするか」も含まれる。自分がストーリーを組み立てた後に、それを満たす音声を探すのではなく、音声の断片をいくつか並べた後、それをつなぐように文字のスライドを作り、話を補完する。

例えば、千早の話では「Tears in heaven」で作るということは決めていたが、ストーリーがどうなるか、というのは完全にナレーションの素材まかせだったのだ。そう、「千早と彼女の弟」というテーマだけに注目するのなら、別に時代を未来に設定する必然性はない。

よく考えてみると、この作り方は相当特殊なものかもしれないと思う。だって、ダンスPVも手描きもNovelsM@sterも、みんなストーリーを作る主体はその作品を投稿したPだ。これに対して自分は、超がつくほど受動的なアプローチを試している。こんなんでいいのか、自分!?

とまあ、そんなことをとりとめもなくぐわんぐわんと考えていると、「さて、何か作るか」とまるで夜食のラーメンを作るがごとく、創作に向かう思考が働くのがニコマスPでございまして、窪田さんのナレーションを使った「情熱T@i陸」(このタグつけてくれた人ありがとー、俺が次を作らないと機能しなさそうだけれどw)本編とは別に、といっても似たようなものになると思うけれど、何か作ってみようと思うのですよ。

ただし、例によって完成は未定。で、内容も未定(こら

言語化について

自分では絵が用意できず、またステージ映像からPV編集するような技術もない一介の素人としては、ほぼ全ての労力は文章の創作と組み立てに割いている、と思う。でも、この文章の創作と組み立てはすごく厄介で、じゃじゃ馬のように扱いに困ることが少なくない。例えば、連続した文章で語尾が同じであったり、語呂の悪い文章になることは極力避ける。もしどうしても語呂が合わなければ、その文章自体を消してストーリーを変えることもある。

また最大の問題は、物語のベースとして浮かんだイメージを、自分が完全には言葉へと転化しきれないところにある。語りたい要素は数多くあるのに、それをまとめられない。少なすぎると歯ごたえがなくて味気ないが、多すぎるとお腹いっぱいになって飽きてしまう。そうしているうちに、結局のところは根性の限界とか時間の制約もあって、そこそこ妥協できるところで落ち着かせてしまうのだけれども、もっと丁寧に話のつながりを作って完成度を高めるべきなんだろうなあ。本来は。