作法の話 閑話 2009年08月11日 先日外食に出た折、近くの席に、ひじをつき少し背を丸めて料理を食べている御仁がいた。大きなテーブルで向かい合うような位置にいたので、余計に気になったのだった。共にいた女性との話はさぞ楽しいものだったのだろうが、正直に言って、見苦しかった。 そこでふと考えた。「作法」とは何か。 それは、決して自分をよく見せようとふるまうことではない。そんなものは虚飾だ。そうではなく、同じ場に居合わせている他の人の時間、楽しい瞬間を壊さないこと。思い出となる出来事をかきとめる紙に、墨をかけないこと。 それが、作法なのだと思う。 転じて、ニコニコ動画にある無数の動画のことを思った。 あれだけの数である。好きな動画、嫌いな動画が、誰にでも一つはあると思う。そして、自分の好きなものを憎々しく思うような人も、またいるだろう。 ならば、そこでの作法はいかなるものか。 例えば、自分の好きなものを声高に叫ぶ前に、その場所を一度見つめる理性(*1)。また、どんなに嫌いなものに出会っても、cyan big や red big などのコマンドで書き込まずに立ち去る自制(*2)。 それらを、自然に発揮しうること。あくまで自然に。 それができるならば、その人は極めて "善良な" 視聴者だろう。 一方、投稿者としての作法は存在するか。 これはあると思えばあるし、ないと思えばないもの、という気がするが、挙げるとしたら次の二つだと思う。 ・感性や発想のおもむくまま、自由な内容を自由な手段によって実現する ・誰かや何かに抗議する動画・あるいは好き嫌いが強く分かれそうな動画を出すならば、その荷を負うことについて思考する 後者について、背負うか逃げるかはその人が決めることだと思う。しかし、最初から何も考えずに煽りの波に乗っている(もしくは起こす)だけでは、あの無作法な御仁とやっていることはそう変わらない。 いずれの立場にしろ、一番恐ろしいのは「無自覚」という怪物である。この怪物に、あなたは毎日おいしいエサを与えて、飼い放しにしてはいないだろうか。怪物が次に食べようとしているのは、あなた自身かもしれないのに。 *1:特に、普段とは別のところに出かけている場合はなおのこと。ちょっとしたすれ違いがきっかけで、コミュニティの軋轢が生まれてしまうこともあるかもしれない。 *2:愚痴や激情の断片に過ぎないものは、チラシの裏にでも書いて、丸めて捨ててしまうことをすすめる。 PR