dbdbPと朗読Pがジョナサンに長居してお話したよ-(3) お話してみた 2010年05月22日 まさかの続編。おそらく賞味期限切れのおそれあり。 ということで、1月にdbdbPと対談したときの内容の続きです。前回の記事はこちら。 --- dbdbPマイリスト: <a href="http://www.nicovideo.jp/mylist/11107611">【ニコニコ動画】</a> 朗読Pマイリスト: <a href="http://www.nicovideo.jp/mylist/10643779">【ニコニコ動画】</a> --- [現実とは、仮想とは] 朗読P:では、ちょっとニコマスからは離れた話になりますが別のお題を dbdbP:はい 朗読P:彼女たちがあくまでバーチャルなアイドル、キャラクターでありながら、その後の、ゲームの外で人間性らしきものを肉付けされていった過程に関連することとして一つ。 今はまだ学習機能によって言葉を操るAIは不器用ですけど、それがもしある日、遠い未来になるかもしれませんが自立的に欲求というか知性というものを獲得して、自分で言葉を生成したり、元のユーザの人格を転写するほどにまで成長を遂げたら、本体である生身の人間が死んでも、アバターは仮想世界でさも生き続けているかのように振舞っていくのではないか、という疑問を考えると、「バーチャル」と「リアル」とは果たして何なんだろうな、と。質問にすらなっていませんけどもw dbdbP:なんだろう、でも結局現実にしろ仮想にしろ「人間の認識に引き取られる」部分であることは一緒で、そうなってくると根本的に「じゃあ人間ってどう定義されるのだろう」という所に行かざるを得ない、とは思うんだよね。 まあ人間という生き物の定義もそうだけれども、もっと深く広い存在論というか、「では、この人間を含む世界の構造はどうなっているのか」といった所まで逆流していかないといけない。そこまでいくと、その議論はもう科学ではなくなってしまう 朗読P:哲学とか、観念的な話になっていくよね dbdbP:すごく概念的・形而上的な感じになってしまうね。でも多分、こういう言い方をすると身も蓋もないけれども、オリジナルの人間と全く同じような人格だったりとか、あるいは魂とかそういうものを「持っているように見える」行動をとるAIは作れても、本当に「持っている」AI、この表現も矛盾するけどねw、作れない気がする(【筆者注】:攻殻機動隊を知っている人は、「ゴースト」の概念を思い出してもらうとだいたいあっているかと思います)。もし、それを作れてしまう人間がいたとしたら、その人はおそらく「人間以上の何か」でないといけない 朗読P:確かに、例えばいわゆるチューリング・テスト(参考記事)を完全にパスするようなAIが誕生してしまったのなら、開発した人は通常の人間の範疇にはおさまらない人であるとは思うね dbdbP:そうでなければ、それは10gの銅から同量の金を生み出すみたいなものになってしまう 朗読P:あとは、まああくまで人間の範囲での天才が仮にそれを作れてしまったとしても、誕生した瞬間に、開発者自身がそれを消したいと思う衝動にかられるのではないか、とも思うね。「こんなにも人間らしきものができてしまってよいのか」という dbdbP:んー、少し宗教的な部分になってしまうけれども、例えばキリスト教とかだとエデンの楽園の話などが創世記にある。そして聖書の中の一節に、「神は人間を自分の姿に似せて作った」というものがある。 それはこの五体が神の姿に似ているとかそういうものではなくて、神の性質というか、持っている性質と同じように人間を作ったと書いてある部分なのだけれども、ならば人間は神か、というと、全然そんなことはない。じゃあ、神の性質って何なんだ、と問われたら、まあずばり一言で表せるような単純なものではないけど、一つには「愛」なのかな。元々の聖書はヘブライ語やら古代ギリシャ語で書かれているもんだから、日本語に言い換えるのが難しくて本来の意味を完全に伝えられるわけじゃないけど。 そして、その「愛」も概念的には3種類くらいあって、その中の「与える愛情」というか、そういうものがもし人間の性質として少しでも受け継がれているのなら、人工知能を人間が作るのは、もちろん何かしらの課題を解決するためのアプローチとしてあるアルゴリズムを提案するという面だけではなくて、ある意味「自分の思い通りにならないことをしてほしい」「予想しないようなことをしてほしい」という、今までに存在しない手法・演算を自ら生み出して新しい命題も作ってしまう、みたいな自身の支配下にないものを作りたい欲求も動機としてあるのかもしれないなあ、と。 それを、何かをただ単に自分に従属させる位置から、自分の支配から離れたものも受け入れる位置への転換だと見るのなら、おそらくそこには愛情らしき何かがあるんだろうと 朗読P:他には何だろうな、まあ自分たち個人個人がなんだけど、今はインターネット、ネット上、いわゆる電子の網とこの現実の肉体があるという場所はどうしてもモニタだったりとか、物理的・次元的に越えられない障壁みたいなもので隔てられてしまっているけれども、リアルとバーチャル、現実と仮想という領域がもっともっと近づいて、やがてそれらの言葉が死語として扱われるような、連続した世界であると誰もがそうとらえる時代が来たとしたら、今あるフィクション、映画だったりドラマだったり本だったり何でもいいんだけど、そういうものはその時代の彼らから見たらどんなものとして映るんだろうな、って考えたりもする dbdbP:ふむふむ 朗読P:フィクション、という言葉自体も無いかもしれないし dbdbP:いうなれば、現実を作れるようになったというか 朗読P:うん dbdbP:それもやっぱり、「じゃあリアルって何なんだ」ってところに戻るんだろうね。結局、自分の目ではっきり見たものや触ったものって言っても、その感覚自体はリアルなのか、とまで突っ込むと、全ては自分の感覚上の世界で唯心論的な形になっていくのかもしれない。 確かに、自分が目で見たりとか耳で聞いたりとか手で触ったりとかそういうふうにしか認識できない世界で、その世界を疑念なく、疑う余地なく現実と受け入れることができてしまうと、もう僕らにはそれを現実以外のものと区別する術がないわけで 朗読P:ないねえ dbdbP:だけれども、まだ「現実ではないんじゃないか」という疑問が成立してしまう現状ゆえに、仮想の虚しさというか、バーチャルなモノに対する虚無感が生まれてしまう。それは果たして、「バーチャルじゃないんだ、これは現実なんだ」と信じることによって解決するのか、それとも逆にリアルを引きずり下ろす、つまり「この現実だって、本当にそうであるのかはわからないんだ」と考えることによってバーチャルとリアルの間にある格差を埋めて解決するのか。 二つのうち、どちらの考え方を採用するかによって、いかにリアルとバーチャルが近づくのか、という方向性・手法は変わっていく気がする。ただ、こう言っちゃなんだけど、僕らがこれを論じている時点で仮想への虚無感は存在してしまっているね 朗読P:なかったら、話にすらならないからねw dbdbP:だからこの先、技術が進歩して、バーチャルをリアルのように感じることができるようになったとしても、「元はバーチャルだったんだ」という秩序を、どこからこれを現実のように思えるようになったのかという歴史を忘れない限りは、どれだけその品質が上がろうとも、虚しさっていうのはずっと残ると思う。 多分この問題の焦点は、バーチャルをどこまでリアルっぽく作り上げられるかという技術ではなくて、いかに僕らがバーチャルの中に満足を見出すのかという、自己肯定の部分になるんだろうね。ゆえに、未来においてバーチャルに満足できてしまう、そこに虚しさを感じることがないという人は、おそらく今この時代に生きていても同じように満足しているだろうし。対象が何であってもね。そんなふうに、人の側での受容の仕方が変わらない限りは、結局、虚無感の完全な解決にはならない 朗読P:とまあ、そんな感じでころころと現実と仮想について考えていたとき、昨日はボーカロイドのことがふと頭に浮かんで。あれは電子の歌姫なんて呼ばれるけど、SF的には彼女たちが自発的な意思を持って、所有している人間の意思に関係なく、自分の歌いたいものを歌うという欲求から、作曲したり歌い出したのだとしたら、そのとき初めてそう呼べるんだろうと。野尻さん(【筆者注】:野尻抱介。SF作家。参考記事)が言ってたんだったかな。まあその通りかなあ、って。本当はこの話を冒頭にすればよかったねw dbdbP:確かに。まあ今の時代では、バーチャルの虚しさなんて言われるけれども、それが本質的には人間の内面の自己肯定とかに帰結するのであれば、そういった問題は昔からずっと形を変えて何かしらあったんだろうね。大昔の原始時代なら、多分それが直接生死にかかわる問題だったんだろうし、中世なら宗教的な道徳観・倫理観との戦いかな。それが今はそれが虚しさ、生きる虚しさ、そういうものとの戦いになっているんじゃないかと思う 朗読P:インターネットとかの発達よりずっと前の時代では、例えば主に舞台俳優さんが同じようなことを悩んだりしたのかもね。舞台の上だと、彼らにとってのそのときのリアルは、実際に自分が生きている世界のことじゃない。台本にある世界を作り出さないといけない。その中で疑念を持ったら役の人物にはなりきれないわけだから、そういうところで「今自分はこういう人物で、こんな背景があるんだ」ってことを強く肯定できないと、役を演じきるというか、名優とは呼ばれなかったんだろうね dbdbP:ただ、その彼らにとってそういうふうに信じきって没入してしまうことは肯定されることだけれども、今例えばゲームにはまりこんだり、バーチャルの世界にはまりこむことが俳優たちが仕事に打ち込む姿勢と同様に賞賛されるものかというと、そうではないという環境の差、他人への受け取られ方の差は大きいんじゃないかな 朗読P:本人だけじゃなくて、周囲からの影響があるよね。そのネガティブな印象が薄れるか無くなるだけで、またずいぶんと人々の考える仮想ってものは大きく変化していくんだろうね PR