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現実に右往左往しながら、ときどき動画を作る人の記録。

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レスター伯Pと朗読Pが好きなことを好きなように話してみた (3)

年をまたいでしまいましたが、この前の記事の続きで、かつ最終回です。対談開始後、60~120分のあたりの会話を基にしています。

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レスター伯Pマイリスト:




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朗読Pマイリスト:

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[ヒットと選曲]

レスター伯P:ちょっと話は変わるけど、いわゆるニコマスを見る・見そうな層と一番乖離が生まれそうなところがどこかっていったら、やっぱり曲だと思う。僕の選曲って、そのジャンル(【注】:主にUKロックのことを指していると思われる)を聴いてる人たちから見ればメジャーなものだとは思う。知っている人にとっては、「これきたか」じゃなくてもう「キター!!!11!!!」ってレベルのw でも、ニコマス的には大部分の人から見たら「えっ」っていう曲なの。「こんな曲あったな」とか、また少し知っていても「あ、懐かしいな」くらいの感情で止まる、全然メインストリームではない曲。ただ、いわゆる“主流”の曲は、正直に言って僕が知らないって言うのもあるし、作りたいとも思わない。そういう曲で作らなければ、本当に(爆発的には)伸びないってわかっていてもね。よっぽどのことをしない限り。そして、よっぽどのことができるとは思ってないから。ぎょPがTwitterで前にちょっと言ってたけど、再生数なんて曲だよ。僕の解釈だけど、この前のBAWDIESで作るのと、矢島美容室で作るのだったら、そりゃあ再生数が違うのはまあ当たり前だろうと。後者で作った方が明らかに注目度としては高いだろうし、面白い曲だし、「まあ見てみるか」ってなるよね。僕のも、伸びてるやつは杉田の替え歌だしw 何倍も時間をかけて作っている曲、例えば「Rock'n roll star」が3800再生くらいなのに、それは6000だから









朗読P:曲の知名度は響くよなあ

レスター伯P:だから、自分は評価の軸を分けてる。再生数だけで見れば多い方がすごいんだけど、自分では「Rock'n roll star」の方がずっと頑張ったって思ってるし。だって今、ニコマスでOasisのあの曲が絶対聴きたいって言って聴いているような人がどれだけいるんだ、って話だもの

朗読P:そうだなあ、自分の場合は何だろう。曲を知らせたいというより、やっぱり濃いんだな、いろいろとw アンビエントとかテクノの世界にどっぷり浸っている人には、「0:54」はGlobal Communicationの「76:14」に収録されている曲ってわかるけど、“Global Communication”って実はGLAYで同名の曲があるのね。アーティスト名でなく。だから検索するとそっちの方が上位に来やすいんだけど、「(テクノの方の)Global Communicationだー」って、例えばぐらぽんPが気づいて言ってくれたこと、俺はもうそれだけでもいいや、ってw

レスター伯P:自分だと、合作にBattlesで作ったとき、あれは「ヴァイ」だけでやって、コメントでも「なぜここだけアングラカタログ」とかあったんだけど、それに混じって「なぜBattles?」というのもあったんだよね。「知っている人にわかってもらえた」ことが嬉しいというのはわかる。音M@D系を作るときは特にそうかな。曲は聴いているけど、音楽を本格的にやったことはないから、手探りで作っていくし。そうすると、(普通のPVより)もっと音楽的趣味が出てくるんだよね。それでひっかかってくれたときの嬉しさの度合いは確かに強いよ。PVの映像部分はさっきも言ったけど、「素材の良さ」があるから見てわかるものが多いし、アイマスのアイコンとして大抵は誰が見てもそう認識できる。でも音楽はそうはいかない。選曲にもよるけど、「どこがいいの?」ってあるじゃない。はっきり分かれるというか



朗読P:好みがあるからね

レスター伯P技術だセンスだといったところで、わかってなきゃ作れないよ、本当のリミックスは。「適当にやれば何とかなる」という人もいるけれど、基本的にはハードル高いと思ってるから、なおさら自分はマニアックな方向に感覚だけで突き進むことで、「魅せよう、聴かせよう」なんてとっくに置き去りにしてるんだよね。それでも今まではけっこうお祭りに参加するためにPV作ってきたから、ある程度テーマが決まっていて、一から全部自分で組み立て、というわけじゃない。だからこそ今一番やりたいのは自分だけで完全にテーマから決めて、自分がこの曲で、そして規約のような枠内でなくオリジナルのテーマで作りたいというのを前面に持ってきたい

朗読Pお祭りは見る分には楽しいんだけど、作る分には全く得意ではないw 与えられたお題、というか全体的なテーマ?、それに合う軸が自分の中で見出せないことが多くてほとんど参加してない。千早の誕生祭のときみたいに、偶然時期が一致したりすれば出すことはあると思うけど

レスター伯P:逆に、自分は誕生祭には参加していないんだよなあ。そういうのが苦手なのかも。「アイドルに合わせて」作らなきゃいけないじゃない。ゲームをやっていなかったという負い目もあるし、なかなか作れなかった。その反動かな、次に作りたいのは「初めから自分の中にある春香さん」と、「ニコマスにおける春香さんと閣下の関係」で一個ずつ。これはもう使う曲も決めてて、作ろうとしている。素材は与えられるけど、そこ以外は自分で構築するというその作り方、それをやらないとおそらく(ニコマスを)やめられない。完全にはこの世界を抜けられない

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[衣装とロック]

朗読P:んーと、衣装はいろいろあるけれど、もし自分が今後新たなPVを作っていくとしても(春香には)パンキッシュゴシックは多分使わないかなあ。「絶対に使わない」と思われる衣装があって、パンキッシュゴシックはおそらくその筆頭、自分にとって

レスター伯P:パンゴシは閣下を作りたいというのがあるから使うけど、あんまり好きではない。というか、すごく思うのは「ロックのPVってどうしてみんなパンゴシ使うの?」ってところ。そうでないとしても、ダンス系の衣装とか。あれが個人的には好きじゃない。自分にとって「ロックはカジュアル」というこだわりが強くある。ロックのアーティストが着ている服を見てみなって。かっこよくねーじゃん

朗読PTシャツにジーンズとかねw

レスター伯P:よれよれの服だったり、Oasisはファッションリーダーとか言われてるけど、アディダスのジャージとかだよw そういうのがあって「もっと泥臭くていいんじゃね?」とは思う。確かに、「アイドルがやってるから」というところから見ればそっちの方が正しいような気はするけど、「何か違うなー」、と違和感は残っちゃう。もうちょっと「ダサカッコイイ」衣装がほしいと思うことはあるね。アナカジやネクサスでは「このアイドルの衣装はいいけど、あのアイドルの方はダメ」みたいなものがあってw とか言いつつも、「Rock'n roll star」はパンゴシ使っちゃってるけど。ただ言い訳をさせてもらうと、あれは実はストーリーがあって、最初はアイドルたちがパンゴシを着ていわゆるロックスターっぽく「歌わされている」場面で、それではどこかうまくいかない。で、挫折する。そこでOasisの映像を見る。すると、デビュー当時のOasisは、まあぶっちゃけかっこよくない服着て歌っていたわけ。それで、「あ、これがロックなんだ」って気づいてステージに戻ったときはカジュアルになっているというイメージがあった。だからコミュとかOasisのライブ映像を組み合わせたものを考えていたんだけど、結局作れなかった。その名残があるから、初めはパンゴシで後に野外ステージという流れになってる。だから、パンゴシは基本的にはアンチな理由で使っていた。結果としての映像を見ると、「パンゴシかっこいい」みたいになってしまってるけどね

朗読P:なるほど

レスター伯Pただ、他のPの意見とかで、パンゴシのようなああいった衣装は単純に見栄えがいい、アイドルをきれいに見せる上でいいというのを聞くと、「そうなのかな」とも思うけどね。難しい。逆に、ラフタイムはただ僕があの衣装が好きだから使ってるw そんな内面の違いみたいなものはね、端から見てるだけじゃわからないし掴みどころのないものだけど

朗読P:ふむー

レスター伯Pアイマスの衣装に対しては、確かにアンビバレント(ambivalent, 〔ある対象に対して〕相反する感情[思考・価値]を持った、両面感情[価値]の)な感じがあるなあ。好きな衣装、嫌いな衣装は結構はっきり分かれる。自撮りできなかったときのある種の不自由さみたいなものもあったのかな。でもそれと同時にね、やっぱり見る人たちの認識として(衣装の)イメージが固まっている、「こういう曲にはこういう衣装が合う」というようなことがニコマスにはある。それは多分僕が持っているいわゆる音楽的なファッションのイメージじゃなくて、それを打破したい欲求がある。「そういうのじゃないよね」って。これは、同期Pでロックが好きなあるPとよく話すんだけど、例えばロックでストーリー系PVが作られたとき、「なんか違うよなあ」と。アイマスとしては納得できるけど、曲として見たときにはなんか違うということ。僕は立ち位置を常にロック側に置いているから、どうしても気になる。そこらへんは我ながら変に尖ってるなあw

朗読P:両極にいるねw 自分もそうなのかな?w 曲、ひたすら曲重視で極端な話「アイマスじゃなくてよくない?」というコメントをむしろ求める位置で作っちゃうものと、これはアイマスじゃないとダメよね、というのと

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[アイマスって僕たちの何なんだろう]

レスター伯P:ただよく「アイマスだからいいんだ」と言ってくれる人もいるんだよね。それは多分、ロックもアイマスも好きな人?w 僕みたいなw でも僕は「アイマスでなくてもいい」と思うこともあるけど、ただ使える素材がアイマスしかないんだ、ということを否定しない。「アイマスで見たい」だけじゃなくて、僕がPVを作るとしたらアイマスのダンスが一番使いやすいし、自分が表現手段として使う素材の中では最良のものだし。あと、それが一番見てもらえる。すごく甘えとかも含めて言うと、ニコマスの世界においては自分は新参だから、知らない動画もいっぱいあるし、だったらもうそんな文法をいちいち追求していっても、僕がそこに入る余地はないよな、と。ならば、そうではない作り方を!って。オリジナリティじゃないけど、人が作っていないものをやりたいのは常にあるから、もし自分が人と同じことに挑戦するのなら、「勝てる」と思えばやるだろうし、(今の状況に)満足しなければやるだろうけど、そういうものに関しては既に作ってくれている人たちのものを見れば満足できてるから、別に(自分が作るものは)なくてもいいや、と思っちゃう。張り合えるものを作ろうと思ったら、それこそ心が折れそうだしw 与えられるものでも満足しようと思えば、できなくはない。例えば小説なんかは僕が書かなくとも、僕が思っているようなことを書いてくれる作家が何人かいて、その人たちの本を読めば十分だと思う。楽器にしたってそう。自分の欲求を満たしてくれるバンドがあるから、自分は別に楽器をやらなくてもいい。絵もそうなんだよな。ずっと描かなくて、「自分は絵が苦手だ」というレッテルを自分に貼り続けてきた。映像にしろ、芸術方面のセンスはゼロだと思ってたから。ゼロなんてありえないけど、でもそういうのは僕がやることじゃないなと思い続けていて。でもそれがニコマスだと何でもありだから、そこの世界に入って初めて、動画作ってもいいんだ、文章書いてもいいんだ、音楽をいじってもいいんだ、というのを知って最近はそれが楽しくなってきた。だからね、アイマスはすごく好きなんだけど、そういう表現のツール、媒介としての見方はいつもついてくる。アイマスを一言で表すと、世界であり媒介。自分をその世界に導いてくれる媒介だし、それを通じて人とコミュニケーションを取る媒介でもある。まさに、アイマスってそういう存在じゃないのかな。そこまで言い切る人がどれだけいるかっていうと、決して多くないと思うけど、僕に関してはそういったもの

朗読P:世界とはなかなか大きく出たね

レスター伯P:まあ、あらゆるものがそうなんだけどね。実は、一つのことに完全に深く深く潜り込んで何かをするというのはあまり得意ではなくて、いろんなことにある程度はまっていって、広く浅くじゃないけど、どの領域にも首を突っ込むのが好き。で、結局研究については「何でやってんの?」と言われると、唯一それだけは少し首を突っ込んだだけじゃわからなかったから。自分が深く追っていかないと、他の誰もやってくれない。そういう感じだった

朗読P:そうだなあ、媒介、媒介かあ。自分にとってのアイドルマスター、アイマス、まあニコマスもそうだしアイマス全体、元々のゲーム世界としてのアイマスもそうなんだけど、例えば自分という光があったとして、プリズムで分光したときに色が分かれる、と。その中の一色、あるいは一色というほどの帯域には満たない一本のスペクトルの中にアイマスがあるんじゃないか、と最近は思う。いろんな色が自分の中にはあるけれど、今一番見たい色がたまたまアイマスなんじゃないかって

レスター伯P:僕の場合は違うかな。アイマスは媒介だから、何をするにもアイマスというフィルタ、レンズを通すんだよ。それでアイマス色の世界を見る。アイマスによって、自分の色をアイマスの色に染め上げていく。ゆえに、「アイマス的表現」をする。それで考えると、(朗読Pよりは)僕の方がどっぷりはまっているんだよ。アイマスという世界に浸かっている。自分の中の一部がアイマスなんじゃなくて、自分がアイマスに溶け込んでいく。もちろん、それ以外に「研究」や「プライベート」というフィルタもあるけれど、最もよく使うのはやっぱりアイマス。性格の中で一番大きくて、多分一生なくならない。だから「アイマスから離れる」ということはできるけど、どういうスタンスであっても、どういうことをしていても、最終的には残っているアイマスというフィルタをその瞬間に選んで通しさえすれば、自分のアイマスというものはいつでも表現できると思っている。それぐらいの距離感なんだよ。自分の一部とは言い切らない。というか、アイマスは客観的なものの代表で、バーチャルなもの。でも、バーチャルだからこそ楽しめるものが好きで、自分とは違うところに一つの空間として成立しているからこそ、そこに対して距離をとって楽しめる。そのせいもあって、自分を「アイドルのプロデューサーです」とはあまり言いたくないというか、「違うな」とは思う。じゃあ、プロデューサーって何だ?、というとミュージックビデオでもいいし教養講座やテレビ番組みたいなものでもいいけど、そういうものを作る人がプロデューサー。だから、自分のPVの中ではPを出したことがない。一度も。なぜなら、プロデューサーという立場を想像できない。リアルには。プロデューサーという存在が、まあ例えばノベマスとかに出てくるようなプロデューサーなら結構プライベートな場面が多いけど、ああいう風なプロデューサーに自分を置き換えられない。もっとゲスト的な存在。アイマスを遊んだときに、どことなく感じる違和感は多分そこなんだろうな。春香のエンディングもね、バッドエンドなんて言われたりもするけど、僕はあのエンディングは結構好きで。また、春香は普通とか無個性というより、個性が「アイドル」なんだろうなと。何ものにも染め上げられていないからこそできる、「個性=アイドル」だから、ぶっちゃけた言い方をしてしまえば、そこにPは手を出せない。手を出してしまった瞬間、“アイドル”天海春香は絶対になくなる。戻ってこない。だから距離を置くか、そうでなくともゲーム内での、「アイドルとプロデューサー」以上の関係はありえない。あと、ゲーム中のアイドルとの距離のとり方って、意外にドライだと思う。アイドルの方からのアプローチはあるけど、プロデューサーが最も熱意をあげるべきなのはプロデュースすることであって、彼女たちとどうこうというものとは違う。バンナムがどこまで意識したかは知らないけど、そう考えると春香さんのエンディングはあれ以外にないと思う。かつ、ああいったエンドだからといってPが春香のことを嫌いなわけでは絶対ない。納得もできる。ただあそこで、春香さんに視点を持ってくると単純にバッドエンドに見えちゃう。つまり、僕はあのエンディングを春香の視点では見ていないし、見ようともしていないんだな、と思う。ベストのチョイスか、なんてことは知らない。それはよくわからない。他のアイドルの話ももっと見れば違った考えになるかもしれないけど、逆に言えばそういった経緯で自分は春香派になるべくしてなったのかな、と。もしゲームの中で春香と関わるのだとしたら、自分にとっては765プロのプロデューサーとしてより、外注の仕事のプロデューサーとしての方が多分一番楽しいと思う

朗読P:春香の話を一番初めに作ったのは、まあもちろん好きだったからという理由もあるけど、最初はPVとかを見ていて、笑顔が一番気に入ったキャラクターだったからというのが大きいんだよね。別にあのエンディングが第一に優先してあったわけではなくて、まず春香という子を好きになった。そして、そのエンディングは他の子と何か雰囲気が違うらしいという話を聞いた。この段階ではまだそれを見ていない。で、次に週マスピックアップで「情熱大陸×如月千早」が来て、投稿者のマイリストコメントから情熱大陸のサイトに行ってみたら、まさに「春香」という漢字も同じ子が登場する話があった。そこで初めてエンディングのコミュ動画を見に行って、「そういう展開なの?」と。だから最初はすごくぼんやりしてたんだよね、「春香さんで動画を作りたい」というただそれだけ。それがいつの間にかエンディング後の話を書くことになり、気がついたら、という感じ。だからTrue Endタグとかはすごくありがたいんだけど、初めからああいった幸せというか、いかにもニコマスの中でそういうことを望んでいる人がいそうなエンド、を書こうと意識していたわけではあまりなかったんだよなあ



レスター伯P:なるほどね。なるほど

朗読P:で、春香さんに限らずあの朗読シリーズっていうのは、そのキャラの話を書くまで私は彼女たちのコミュをほとんど知らないの。ニコマスの動画を視聴するうちにどうしても見えてしまうものを除いて、他のものはね。書こうと思ってから、ほとんど全部見に行く。全部見終わって、そしたら「これで書くか」となる。いつもは誰かのPVの表面的な部分で漠然とイメージを持っているにすぎない。例えば「やよいはかわいいな」「ロリトリオかわいい」とか言ったところで、本当にやよいがどういう人間で、どういうことを思いそうなのかということまで深く深く考えるのは話を書く段階になってから。そう見ると、あのシリーズを書いているときは話の主役の子にすごく入れ込んで書くけど、実はそれまでは、自分の、その子に対する関係意識はひどく希薄だ、ともいえる。そしてPVは主に関係意識が希薄なままの自分でそのまま作ってしまう。だから何だか冷たいというかよくわからないとかそういうものが出来上がるのかもね

レスター伯P:でも実際の「情熱大陸」もさ、あのナレーションは登場するゲストの人の取材が終わった段階で、そういう風に(その人物をよくよく考えて)書かれたり、読まれたりするわけじゃない。だから朗読さんの作り方っていうのは、逆に元番組の方の作り方に実はすごく近いんじゃないかな

朗読P:ああ、そうかもしれないね

レスター伯P:僕も教養講座を作っているときは、コミュは春香さんとちーちゃんとりっちゃんだけ見てた。しかもぱっと一回見ただけだから、キャラ付けとか(台詞回しも含めたキャラの)動かし方は、それまで自分が見てきた架空戦記やノベマスの影響がそれよりも先にあった。だから途中から雪歩が出てきてはるゆきになるのも、あれは閣下三国志がはるゆきになったから、「この二人はこれでいくぞ」ってねw



もうアイマスのストーリーがあって、そこからどうこうというものじゃなくて、そこにいる自分が見たアイドルと(作った)プロデューサーで、という。あれで失敗だったな、と思っているのは「プロデューサーを出さなきゃ良かった」って。一応いることにしているんだけど、作っているときは(自分のことを)制作会社のプロデューサーだと思っていたから、案内人がいて何かを紹介する番組を作るときに「あの子いいよね」と裏方で言っているだけの方がよかったなあと。ただあれはそういう風にできているから、コミュを知らなくてもいいような作りにはしているつもりだし、それが主題では全くない。だって教養講座だしね、それはそれでアリだろうと。でもニコマス全体で見るとそこへの「こだわり」のようなものはみんな結構あるよなあ、とは思うね。「このアイドルはこうでなきゃ」というような。その立場から見れば、僕はたぶんすごく弱い。コミュだって全部見ていないし、何となく知っているに過ぎない。やっぱり二次創作としての、「自分にとってこういうキャラになら落としこめて、映像として作れる」かどうか。そのイメージ

朗読P:レスター伯Pとは、立ち位置というか制作上の考え方っていうので、こうして今日いろいろ話してみたけど、会う前に想像していたよりずっとロックンロールな感じはするなあ。そう思ったw

レスター伯Pもうセッションだよ。その場で「このアイドルとこれ合わせればこう反応するだろう」みたいな。自分の生き方もそんな感じだし。違う結果が出ちゃうこともあるけどw でもそういうアドリブはすごく好きだし、台本はなくていい。筋道だけ決まっていれば、当初とは違う側に転んだ方が断然面白い。予想とは異なる方をどちらかといえば望むっていうのは、将来的に生きていてつらいような気はするけどねw ただ一つ思うのは、それを楽しんでほしいな、って。見ている人は当然だけど、自分も楽しんでほしいし、出ているアイドルも楽しんでほしい。「とりあえずハッピー」なら僕は許せちゃう。暗い話を書きたくないわけじゃないんだけど、自分が書くときっと「暗い」を通り越して「悲惨」になるw それは心が折れるだろうしw そりゃあいろんなものを消化した上で、ぐっと入り込んで書ける人をすごいとは思うよ。ただ言い訳だけど、「それを僕もする必要があるか」っていうとそんなことはないだろうと。偉そうな言い方になるけど、もっとそういうことをみんな意識すればいいんじゃないかな、と思うことはある。自分の中である程度「こういうスタンスなんだ」っていうのを決めた上でポリシーを持つことをね。だって二次創作だし、MADなんだから、別に限られた文法の中でしかやる必要はないと。再生数とかはそれを持ってから気にすればいいんじゃないの。「自分はこういうスタンスでやっているんだ」って決まっていれば、反応の大きさっておおよそつかめるでしょ。例外はあるにしろ。評価を下すのなら、たぶんそれからでいい。「なぜ伸びない」と言われてる動画があるけど、僕から見たら「この方向性でよくここまで伸びた」って思うものもあるよ、実際。この表現でここまで見られてるってすごくない!?みたいな。だから、再生数とかもさ、昔はこのくらいだったっていうよりはもっと細かく分けて見ていった方が気楽だし向いているよ。見ている方にも、制作している方にも。昔のものもニコ動だと記録が残るから見えちゃうけど、でも今は幸せなんだと思うよ。少なくとも、僕はそういうふうに思ってる

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[あとがき]

3回にわたって長々と二人の話を書いてきましたが、この最後の文までたどり着いた人がどれだけいるのかなー、と考えると不安でいっぱいです。また、うまく会話の雰囲気や意図を表現できたかというと、それも怪しい感じがして、私の実力不足を皆さんに平謝りするしかないのですが、ここまで読んできた中で皆さんそれぞれ賛成できる意見・文句をつけたい意見、あったと思います。もしこれをきっかけにして、皆さんにとって「アイマスって僕たちの何なんだろう」という最後のトピックについて、ちょっとでも考えてもらえるのならば、語り手兼筆者としては望外の喜びです。

ありがとうございました。
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