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現実に右往左往しながら、ときどき動画を作る人の記録。

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作法の話

先日外食に出た折、近くの席に、ひじをつき少し背を丸めて料理を食べている御仁がいた。大きなテーブルで向かい合うような位置にいたので、余計に気になったのだった。共にいた女性との話はさぞ楽しいものだったのだろうが、正直に言って、見苦しかった。

そこでふと考えた。「作法」とは何か。

それは、決して自分をよく見せようとふるまうことではない。そんなものは虚飾だ。そうではなく、同じ場に居合わせている他の人の時間、楽しい瞬間を壊さないこと。思い出となる出来事をかきとめる紙に、墨をかけないこと。

それが、作法なのだと思う。


転じて、ニコニコ動画にある無数の動画のことを思った。
あれだけの数である。好きな動画、嫌いな動画が、誰にでも一つはあると思う。そして、自分の好きなものを憎々しく思うような人も、またいるだろう。

ならば、そこでの作法はいかなるものか。

例えば、自分の好きなものを声高に叫ぶ前に、その場所を一度見つめる理性(*1)。また、どんなに嫌いなものに出会っても、cyan big や red big などのコマンドで書き込まずに立ち去る自制(*2)。
それらを、自然に発揮しうること。あくまで自然に。
それができるならば、その人は極めて "善良な" 視聴者だろう。

一方、投稿者としての作法は存在するか。
これはあると思えばあるし、ないと思えばないもの、という気がするが、挙げるとしたら次の二つだと思う。

・感性や発想のおもむくまま、自由な内容を自由な手段によって実現する
・誰かや何かに抗議する動画・あるいは好き嫌いが強く分かれそうな動画を出すならば、その荷を負うことについて思考する

後者について、背負うか逃げるかはその人が決めることだと思う。しかし、最初から何も考えずに煽りの波に乗っている(もしくは起こす)だけでは、あの無作法な御仁とやっていることはそう変わらない。


いずれの立場にしろ、一番恐ろしいのは「無自覚」という怪物である。この怪物に、あなたは毎日おいしいエサを与えて、飼い放しにしてはいないだろうか。怪物が次に食べようとしているのは、あなた自身かもしれないのに。


*1:特に、普段とは別のところに出かけている場合はなおのこと。ちょっとしたすれ違いがきっかけで、コミュニティの軋轢が生まれてしまうこともあるかもしれない。
*2:愚痴や激情の断片に過ぎないものは、チラシの裏にでも書いて、丸めて捨ててしまうことをすすめる。
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余白の話

PV系の動画や手描き系の動画にそれぞれ展開の緩急があるように、物語にも「余白」というものがある。

思いついたときに、さっと取り出した紙とペン。開いたテキストエディタ。いや、そもそもプロットすら書かずに、いきなり編集ソフトを起動して作成にとりかかる人もいるかもしれない。しかし、いずれにしろ最初は何も書かれていない。まっさらだ。そこに文章を付け足していく。書いて、消して、書いて、消して、書く。

そうしていると、何も無かったところが段々と埋まってくる。何も無いところが、削られていく。

やがてある程度形になっても、心の内では「もっと埋めたい」・「もっと書きたい」と思うことがある。だが、私はそこでいったん手を止める。一歩後ろに下がって、もう一度読んでみる。すると思いのほか、紙が、テキストエディタが、編集ソフトのタイムラインが、きゅうくつである。どこか、落ち着きがない。

「余白」が、少ないのだ。

説明のしすぎ・設定の書きすぎ・まわりくどすぎる言い方…
余白が少ない原因はそのときによって異なるが、これでは見る人が自分の思い浮かべたことを綴れる場所がなくなってしまう。見ている間、私の書いた言葉だけでその人たちの余白が埋まってしまう。

これはいけない。

だから、その後私は言葉を削る。削って、消して、余白を作る。

こんなやり方をしているものだから、私の一連のシリーズは他の人たちが作ったノベマスに比べると、文章量が少ない。そして、良く言えば「淡い物語」だが、悪く言えば「どこか盛り上がりに欠ける話」になる。


しかし、その話を私以外に好きだと言ってくれる人たちがいる。幸せなことである。

寄せられたコメントを、私は自分の中の余白に書き足す。私が書いた言葉と、彼らが書いた言葉で余白はなくなり、一つのまとまりが生まれる。

これで、その作品はようやく完成となる。自分で作っただけでは、まだ未完成なのだ。

数の話

数と名が付くもの。

再生数、コメント数、マイリスト数。

そして、「伸びる」・「伸びない」という表現は、そこら中に出てくる。タグ、ブログの感想、コメント。


なぜだろう。最近、そういった言葉を見るときに、何となく胃の辺りがもたれるような感じがする。いやもしかしたら、以前から少しずつ積もってきた小さな小さな違和感が、ここに来て現れたのかもしれない。再生数が、コメント数が、マイリスト数が、伸びたいと願うことは別にいい。そう願うのは、その人の勝手だ。でも、この胸のつかえは何なのだろう。喉が乾き、うまく声が出ないようなこの状態は。

目標はあったはずだ。

・再生数:特になし
・コメント数:多いと嬉しい
・マイリスト数:2以上

これが、私の厳然たる目標のはずだ。少なくとも自分以外の誰か一人がどこかで共感してくれればそれでいい。私にとっては、最後の一点だけ達成できれば、あとはごほうびのようなものである。だからこの基準で考えると、今の私はすでに十分評価を受けているともいえる。ありがたい限りだ。

振り返って現状。ルサンチマンとは違う。そこまで激しい嫉妬や憤りは全く無い。むしろ、心のうちは氷のごとく冷えている。それゆえ、もったいないと思いつつも、ここしばらくは動画のコメントを消して見ていたり、Twitterに行かなかったりする。一種の倦怠期のような気もするが、元々渇望に乏しい自分のことだ。そうした空気を避けたがる癖が、いつの間にか染み付いていたのかもしれない。

ただ一つだけ、今の自分に釘を刺しておかなければならないことがあるとすれば、これらの数が欲しいがために何かを作ろうとするなということだろう。そういうことを楽しみながらできるほど私は自分を図々しくできないし、そうした自分を許すこともできない。もしそんな思考で心が埋まることがあれば、その時は去らねばなるまい。

いつぞやの「伸びろ」の歌は、これに対する反面教師なのだ。