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現実に右往左往しながら、ときどき動画を作る人の記録。

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あわあわ

ついったで何かつぶやこうと思ったら、ちょっと調子が悪い様子だったのでこちらにコピペして落書き。

・死の淵に橋をかけるのは容易じゃない
・ダーウィンの海にいる多様な種は、ときに輝く希望の中で生まれ、ときに深い絶望の中で去ってゆくのかな
・絶滅じゃない。去るだけ
・部屋の扉は開いているが、その階を通り過ぎていく人には何が最初になるか
・エレベーターのボタンに貼られた付箋紙の役割
・押してもだめなら引いてみな
・建物は大きいかもしれない。でも、住んでいる部屋が広いとは限らない
・換気しないでストーブをつけっぱなしにしていると、一酸化炭素中毒になる
・息苦しさを感じるなら、多分そのあたりが原因
・理想郷は、あくまで理想
・続くときは続くし、なくなるときはなくなる。でも、記憶のポケットにしまったものをゴミ箱に捨てなければ、それはその人の中にあり続ける
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作法の話

先日外食に出た折、近くの席に、ひじをつき少し背を丸めて料理を食べている御仁がいた。大きなテーブルで向かい合うような位置にいたので、余計に気になったのだった。共にいた女性との話はさぞ楽しいものだったのだろうが、正直に言って、見苦しかった。

そこでふと考えた。「作法」とは何か。

それは、決して自分をよく見せようとふるまうことではない。そんなものは虚飾だ。そうではなく、同じ場に居合わせている他の人の時間、楽しい瞬間を壊さないこと。思い出となる出来事をかきとめる紙に、墨をかけないこと。

それが、作法なのだと思う。


転じて、ニコニコ動画にある無数の動画のことを思った。
あれだけの数である。好きな動画、嫌いな動画が、誰にでも一つはあると思う。そして、自分の好きなものを憎々しく思うような人も、またいるだろう。

ならば、そこでの作法はいかなるものか。

例えば、自分の好きなものを声高に叫ぶ前に、その場所を一度見つめる理性(*1)。また、どんなに嫌いなものに出会っても、cyan big や red big などのコマンドで書き込まずに立ち去る自制(*2)。
それらを、自然に発揮しうること。あくまで自然に。
それができるならば、その人は極めて "善良な" 視聴者だろう。

一方、投稿者としての作法は存在するか。
これはあると思えばあるし、ないと思えばないもの、という気がするが、挙げるとしたら次の二つだと思う。

・感性や発想のおもむくまま、自由な内容を自由な手段によって実現する
・誰かや何かに抗議する動画・あるいは好き嫌いが強く分かれそうな動画を出すならば、その荷を負うことについて思考する

後者について、背負うか逃げるかはその人が決めることだと思う。しかし、最初から何も考えずに煽りの波に乗っている(もしくは起こす)だけでは、あの無作法な御仁とやっていることはそう変わらない。


いずれの立場にしろ、一番恐ろしいのは「無自覚」という怪物である。この怪物に、あなたは毎日おいしいエサを与えて、飼い放しにしてはいないだろうか。怪物が次に食べようとしているのは、あなた自身かもしれないのに。


*1:特に、普段とは別のところに出かけている場合はなおのこと。ちょっとしたすれ違いがきっかけで、コミュニティの軋轢が生まれてしまうこともあるかもしれない。
*2:愚痴や激情の断片に過ぎないものは、チラシの裏にでも書いて、丸めて捨ててしまうことをすすめる。

虎の眼

孤高のまなざし。
気高く、強く、彼女は輝く。



時雨P

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Die棟梁P